プロフィール

田北暁 AKIRA TAKITA
代表取締役社長 田北暁

1953年、長崎県生まれ。
1974年、国内大手輸送機メーカー入社。生産管理部にて10年近く生産管理業務を経験。
1983年に関連エンジニアリング会社に転向し、中小企業向生産管理システムパッケージを開発。
1992年に株式会社アミック設立、代表取締役就任。
製造業のオープンシステムでの、統合システム構築のためのコンサルティングおよび、システムインテグレーターとしての提案~開発~導入を行っている。
自社製品のハイブリット型統合生産管理システム「AMMICシリーズ」を発表、薬品・食品・化学品製造業を中心に現在でも高い評価を受け続けている。

趣味は音楽(ギター演奏)、ドライブ(車・バイク)。

最近のエントリー

過去のエントリー

2012年1月 6日床屋のおじさん

 行きつけの床屋さんで、15年以上もお世話になっていた年輩の方の顔が最近見えないのでどうしたのかと問うてみると、亡くなられたとのこと。
以前手術をしたとは聞いていましたが、元気になられていたようだったので安心していました。もう会えないと思うと、とても悲しい気持ちになりました。
理髪師学校の先生もしていたそうで、いつもいい仕事をしてくれ、温かい言葉をかけてくれた優しい方でした。
健康に気を付けなければならないことを改めて痛感させられます。

 街中でどこかで会ったような懐かしい顔に出会うことがあります。その方が誰だったか思い出せず、その後ふとしたきっかけで過去の遭遇場面が頭に浮かび嬉しくなり、また会いに出かけるということもあります。
以前の勤め先の同僚はもとより酒屋のお兄さん レストランのスタッフなど以前行きつけの店でお世話になった方々も同様です。
長い間お互い健康で多くの人や自然に助けられ生かされてきたのだなということを実感できるからかもしれません。

それにしてもこの地球上には実に70億人以上の人が棲息させてもらっています。
常に宇宙レベルでも環境変動が発生していますし、今後も世界中で膨大な変化が起るでしょう。
この瞬間を生かされていることに感謝の気持ちを持ち続けながら今年も活動できればいいなと思います。


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2011年9月23日人工衛星で繋がりたい

 3月11日の東日本大震災の日のことはまだ鮮明に記憶に残っています。
TVに映しだされる信じられない光景と多くの死者や被害者のことを想像すると
床についてもなかなか眠ることができませんでした。いまさらながら、
いかに人類が自然の前で非力であるかを思い知らされました。

 さてこの震災をきっかけにBCP(事業継続計画)の見直しが急速に広まっていま
すが、基幹システムのクラウド化を目指してブロードバンド接続 を地上の線や
基地局に頼るだけでは十分ではないでしょう。 
早期に人工衛星を利用した接続サービスをバックアップラインとして導入したいと
考えています。

初期投資も月額コストも安くなってきていますが、いまのところタイの通信会社が
提供しているサービスがもっとも実用的なようです。
今後リーズナブルなコストで超高速インターネット衛星’きずな’などを利用した
商用高速アクセスサービスが展開されることを願っています。

企業のBCP対応目的以外にも新興国や通信基盤整備の進まない地域の方々
のため、いわゆるデジタルデバイド対策としてもこの衛星のもつ有効活用の
ポテンシャルは高いのですが。

また古くなった衛星落下の危険性への対策も国際的なコンセンサスが必要でしょう


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2011年2月21日浜松37年

私が九州からこの遠州、浜松地域に移り住んで37年になります。学生時分は都
会暮らしを嫌って東京や大阪での就職を避けて、年間を通して天気の良い地域
だと期待して、この地を生活の場と選びました。
しかし、長崎に比べて山や海が遠く自然が身近に感じられないことやこの地方
の方言にも馴染めず長くは住めないだろうと考えていたことが懐かしく思い出
されます。
最初に就職して配属された部署は輸送用機器製造会社の生産管理部でしたが、
先週、当時の上司を囲む会に参加させてもらいました。35年以上も前の部署
の人たちが、当時を懐かしがって会話も弾みましたが、先輩たちは皆、年金暮
らしを始めており白髪とともに優雅に見えました。

さて今年は浜松が市制100年となる年だそうです。近隣の町村を合併して大き
な市になりまして昨年は人口82万を越しています。

東京や大阪から訪れるお客様に浜松の紹介をすることも多いのですが、あまり
知られていない逸話や歴史の話をさせてもらっています。

家康が17年間浜松を拠点に活動し戦い天下を取って行きましたが、秀吉の出
世の基礎を築いたのも、浜松であるということ。アミックの本社のすぐ北側に
松下家屋敷跡がありますが秀吉は15歳から18歳までこの屋敷で奉公しており
そのあとに信長に仕えています。

また 浜北という地域から発見された人骨の化石は1万8000年前のもので
本州では最古の化石です。

しかし浜松はやはり家康が残した三方が原の戦いから敗走する際の逸話が多く
残っています。信ぴょう性はともかく家康の人物像を彷彿とさせる、逸話ばか
りです。

ぜひ、これらの逸話や秀吉の活動跡など知りたい方はアミックにお立ち寄りく
ださい。ご案内します。

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2010年9月 6日アルニコ中毒

決してアルコール中毒やニコチン中毒者の話ではありません。
鉄、アルミニウム、ニッケル、コバルトによる鋳造磁石を使ったスピーカーユ
ニットに熱中している話です。
これまであまり意識してスピーカーの構造がどうなっているのかは関係なく
メーカーのブランドやマニアの方の人気情報で特定の米国のスピーカーがいい
ものだと判断していました。
しかし先日知人に誘われ参加してみた自作オーディオ機器の試聴会でその選択
肢は誤っていたことを認識させられました。

実はギターの世界では1950年代に作られたギターが最もバランスがよくいい音
がし高値で評価されていると聞いていましたが、
スピーカーもその年代にヨーロッパで作られたものが評価されていたのです。

1970年代までは一般消費者が変える値段でアルニコスピーカーは製造販売され
ていたようですが、コバルトの入手が難しくなりほとんどのスピーカはフェラ
イト磁石のスピーカーになっているそうです。
自分自身で使っていた35年前に購入したギターアンプにも、やはりアルニコス
ピーカーが付いていました。
真空管も同様の年代評価だと思います。常に新製品がいいものだと錯覚しがち
ですが、過去の先人たちはその時代で最良のものを工夫改善していたのだとつ
くづく感心しています。

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2010年7月12日長崎の思い出

もう梅雨も終わろうとする季節になりましたが、相変わらず強い雨が各地を襲っ
ています。庭にはおおきなカタツムリが、毎日場所を変えて現れます。まだ蝉も
地上には出てきていません。

毎年この季節になると、少年時代を過ごした生まれ故郷のことが鮮やかに思い
出されます。それは長崎の沖に浮かぶ高島という周囲3キロほどの炭鉱で栄え
た小さな島での生活です。
物心ついたころから、夏はほとんど毎日、島の周りの海で朝から夜暗くなるま
で過ごしていました。

晴れの日も雨の日もほぼ毎日海に通っていました。特に好きだった場所はトー
マス・グラバーの別荘があった小島という、松で覆われた美しい岩山です。
その当時はまだ屋根もあり雨が降るとその中で休憩したり食事したりしたもの
です。
長崎の名所のひとつにグラバー邸がありますが、そのグラバーが幕末に佐賀藩
と共同経営で、その高島炭鉱の開発をしていたときに別荘として建てた場所だ
そうです。
明治に入り三菱が経営を引き継ぎ、岩崎弥ノ助(三菱の創始者、岩崎弥太郎の
弟)が社長となったあとも、長くグラバーは顧問として高島炭鉱の経営に携わっ
たそうです。

岩崎弥ノ助もそうですが、NHKの大河ドラマの竜馬伝にも、たびたび顔を出す
後藤象二郎も高島炭鉱の経営をしていた時期があるそうですが放漫経営で三菱
に経営を委譲したようです。

数年前にグラバーの日本人の妻が、あの有名なオペラ「蝶々夫人」のモデルで
あったという説の書籍があり、その本を手にして以来、グラバーの業績がいか
に日本の歴史に大きな影響を与えていたかを知り、なおさらに高島の小島が懐
かしく思い出されます。
最近テレビでも軍艦島の映像がたびたび出てきますが、その軍艦島も高島の一
部で、私は当時の自室の窓からよく眺めていました。
特に夜見るその島影は、アパートの窓明かりでまさしく戦艦という形容詞がぴっ
たりでした。
廃墟になった現在の島からはその印象やエネルギーはまったく感じられないこ
とが残念です。

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2010年5月24日何色の緑を表現できますか?

 新緑の季節もすぎ車窓からの緑も日に日に色を変えていきます。
新幹線での出張時に普段は通路側に座るのですがこの季節は窓側に陣取り、移
りゆく山側のさまざまな緑を目の御馳走にしています。

 ふとこのバラエティー豊かな緑の色の名前を日本語でどれだけ表現できるか
自問自答してみました。黄緑、深緑、若草色、鶯色??? なんとこれくらいし
か出てきません。実際はこれまで日本人はどのような言葉で表していたので
しょう?

早速Webサイトで日本の伝統の色について教えてくれるサイトを見て、まずその
単語の多さに驚きました。
緑系すべてで50色以上の色名がありました。濃いみどりから最も薄い緑の色
まで、聞いたことのない単語が並んでいます。もっとも薄い緑は白緑(びゃくろく)、
その次は裏葉柳です。お茶の葉の色や松葉の色など誰でも知っているような
植物や動物から付けられている色名もあります。
緑系だけでなくその他の色の表現も含めると単語数は300以上あるようです。

現代では携帯で伝えたい景色をメールで送るのが一般的になり、ますますこのような
色名は使われなくなるでしょう。
染色や工芸品制作にかかわるひとなら必要なこれらの色名でも一般の人にとっては、
ほとんど使われなくなってきてはいますが、目にするものや想像しているものを
他人に言葉だけで伝えることが難しいことも実感できました。

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2010年4月 8日三寒四温

庭に毎日訪れていた、めじろのつがいも、梅の花をついばみはじめました。
春の宵は値千金と詠んだ詩もありましたが、まだまだ寒く部屋に閉じこもりがちです。

先日のニュースで東芝さんが白熱電灯の生産中止をすると伝えていましたが、ふと何個か買いだめをしておきたい衝動に駆られました。
将来LED電球が安く普及してしまうと、白熱電灯の暖かみを懐かしがる日が来るのではないでしょうか? 
私は、レコードを聞くときがありますが、古い真空管の国産アンプで鳴らす音がいまだに大好きです。

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2010年2月12日ピアノ

日本でも寒い日が続きましたが、北半球全体で寒波、豪雪に見舞われているようです。

昨年はピアノがイタリアで誕生して300年にあたる記念すべき年でした。昨年の米国の
コンテストで優勝し一躍有名になった、目の不自由なピアニスト、辻井伸行さんの
演奏に感動した記憶とともに、その楽器自信の素晴らしさも再認識していました。

世界中にこれまで販売されたピアノブランドは12,000以上もあるそうです。
私が住んでいる浜松にはヤマハ、カワイ以外にも多くのピアノ製作会社があります。 
しかし私たちがTVやCD、ラジオなどから耳にするピアノの音の90%以上は
スタインウェイというブランドのピアノだそうです。米国の会社ですがドイツ出身の
家具職人が始めた150年近い歴史のある会社です。どうしてこのメーカーのものが
広く使われているのでしょうか? 第二次世界大戦でドイツの有名工場が生産
できない時期に販売を大きく伸ばしたこともありますが、長年の改良と革新的な
技術に取り組んできた成果なのでしょう。音が大きく粒立ちがよくバランスが
いいものが多いと思います。
(余談ですがピアノという名前の由来は、「クラヴィチェンバロ・コル・
ピアノ・エ・フォルテ」イタリア語で「弱い音と強い音の出るチェンバロ」
という意味だそうです。wikipediaより)
JAZZのピアニストはほとんどこのスタインウェイを使って録音していると思います。 
もちろんスタインウェイ以外にもショパンの愛したフランス製プレイエルという
ブランド、ドビュッシーの愛したドイツ製のべヒシュタインというブランドなど
一流の音楽家から支持されているブランドも現存しています。

日本製のピアノも音質がかなり良くなり評判もいいようですが、まだプロの音楽家の
選択肢には入らないようです。
日本の高度経済成長期にピアノのコストは大量生産により驚くほど下がっています。
1960年、初任給の15倍だった価格が25年前からは3倍近くまで下がっていますから、
5倍近いコストダウンの実現はすごいものだと感心します。

アミック本社にも日本製のグランドピアノを設置してあります。
もっと社員やお客様に気軽に弾いてもらえればいいなと思っています。

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2010年1月12日駅伝と電気自動車

新年明けましておめでとうございます。
今年の正月は浜松にしては珍しく寒さが厳しく、早朝には、屋根に雪が残る程度
ですが、降り積もりました。

毎年正月の名物となっている箱根駅伝ですが、私は今年初めてテレビ中継を
真剣に見てしまいました。駅伝のテレビ中継を見ると、中学生時代のクラブ活動の
苦しい練習を否応なしに思い出してしまいます。毎日練習してもさっぱりタイムが
伸びず、後輩が次々レギュラーとなっていく中、情けないことに私は万年補欠でした。

チームワークで目標を目指し個人の能力や努力が明確になる競技は他にもありますが、
長距離という環境が結果を大きく左右する競技では、時に素晴らしいドラマが生まれます。
大勢の選手が誇りと大学の名をかけて勝負に挑む中、とりわけ自信に満ちた表情で、
安定感のある走りを見せた選手がいました。昨年体調を崩し途中棄権をしてしまい、
再起をかけて走った選手だったのですが、予想通りいい結果でタスキを渡せました。
この中継を見ていて私が強く感じたのは、選手たちの周りで空気を悪くする車を
走らせないでほしい、ということです。少しでも新鮮な空気を吸って、力いっぱい
走ってもらいたいものです。

昨年から輸送機器製造業はじめ多くの日本の製造業が、長い冬の時代に入ったように
明るい兆しが見えません。2009年に最も販売台数の多かった自動車は史上初の
ハイブリッド型乗用車のプリウスで、2位は軽自動車のワゴンRだったそうです。
今年からは他のメーカーのハイブリッド型や電気自動車の発売が見込まれているようです。
これからの何年かが、自動車製作技術の大きな転換期になるのでしょう。

先日、フェルディナンド・ポルシェ博士の伝記に目を通していたところ、驚きました。
100年以上前に、オーストリアのウィーンで王室御用達馬車製作会社が騒音と悪臭の
ひどいガソリンエンジンに見切りをつけて電気自動車を作ろうとしており、その会社が
24歳という若さのポルシェの才能を見込んで採用し、当時として最高の記録を出す
ハブモーター型の電気自動車を製作していたのです。 その電気自動車は1900年の
パリ万博で好評を博し、一般顧客に300台以上販売されたそうです。
それまで電気機械製造会社に勤めていたポルシェの才能が自動車業界で花開くきっかけに
なったのが、電気自動車製作だったわけです。その後も改良は続けられ、2年後の
1902年にはガソリンエンジンからダイナモで電気エネルギーに変えハブモーターを回す
というハイブリッド自動車を製作しています。

以前から空冷ビートルを愛用している私は、改めてポルシェ博士の偉大さを実感して
しまいました。最近はそのビートルにリチウムイオンバッテリーとモーターを取り付けて、
"クラシック電気自動車"で通勤してみたいなと考えています。

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2009年12月22日テレビは見てはいけない!?

急に寒くなりました。最近は炬燵に潜り込むことも少なくなりましたが、
足元を温めてミカンなど頬張りながらのテレビ観賞は冬の楽しみの一つでしょう。

先日、『テレビは見てはいけない』という本のタイトルが目にとまり、早速読んでみました。
まさしくこのタイトル通りの言葉が、25年前に他界した父の口癖だったからです。
1960年、私が小学生の頃、当時住んでいた長崎市沖の小さな島の炭鉱の町にも
白黒テレビが普及し始めていましたが、なかなか購入しない父を恨んだものでした。
やっと購入したテレビも父がチャンネル決定権をにぎり日曜日の朝の数時間と
教育的番組だけしか、見る機会を与えられませんでした。その当時父が主張していた理由と
この著者のいうことは概ね共通しているようです。
著者は脳機能学者でテレビは洗脳メディアであり危険だと警鐘しています。

そういう訳で私は子供時代、テレビをほとんど見ることができない生活を過ごしてきました。
その分、とにかく本をよく読みました。特にSF小説が好きで、ハヤカワSFシリーズという
縦長のポケットサイズの本をたくさん読んだ記憶があります。そこから当時の外国の
生活習慣の知識を得たり、未来社会で起きるであろう問題に思いを巡らせたり、
夢中で読みふけったものです。 
米国で今でも人気のある作家、レイ・ブラドベリが『華氏451度』という本を
書いていました。あのマイケル・ムーア監督のブッシュ政権を批判した『華氏911』という映画は記憶に新しい
と思いますが、この『華氏451』という本からヒントを得てタイトルを決めたようです。
中学生当時に読んだ記憶がありましたが、内容を忘れていたのでもう一度読んでみました。
ちなみに  華氏451度は紙が燃焼を始める温度になります。

1953年執筆当時の米国はテレビが普及し始めた頃だったのでしょう。ある未来の社会ではすべての部屋の壁で
テレビが見られ、耳には超小型ラジオをはめ込み、画一的で一方的な放送とその結果、
パターン思考だけの世界に陥っている国民。
思考能力を低下させ国家権力に対する抵抗力を失わせるためにすべての危険な書物を焼き払い、
いつの間にか他国との戦争を起こして滅んでしまう― という内容のものです。

なにか現在の社会現象に酷似しているような気がして、読み終わった後にすこし背筋が寒くなりました。

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